新しい発想とは他者との会話の中で生まれるものなんだなあと実感することが多々ある。今日も友人との会話の中で面白い結論に達したので書き留めたい。
「ゆるやかな大麻コミュニティ」というインパクトのあるワードで有名になった事件があった。限界集落にたくさんの若者が一斉に移り住み、そこで大麻コミュニティを形成していたということだ。
限界集落は日本国内にいくらでもあるので、今後違法だったり反社会的なことをしたい人たちが集まって限界集落に移住するようなことが多くなるのだろう。いや、すでに見つかっていないだけで多くのコミュニティがあるのかもしれない。
一方話は変わって、「流行語大賞がまったく流行していない問題」がある。「神ってる」があんな使い方をされているなんて聞いたこともなかったし、「聖地巡礼」の受賞対象があんなものだとも予想していなかった。
これはつまり流行語大賞を決める人たちとそれを受け取る人たちに溝があるか、間違った層に届いてしまっているということだろう。多様な価値観が認められるようになった現代において社会全体の「流行」をひとつに決めることができなくなってしまったのかもしれない。
さらに、ライセンス料の安い漫画などを原作にしたクソ映画が量産されているというできごともある。
しかしクソ映画なのにテレビで大きく宣伝され、衰退することなく量産され続けているということはある程度の売り上げがあるということだ。つまりどこか自分には見えない地平線の向こうに、あの映画たちを喜んで見て、しかも結構楽しめて、また同じような映画を見ようと思うような人がたくさんいるということだ。未だにそういう人を見つけられていないあたり、自分の世界はかなり狭いということだろう。
限界集落に集団で移住する人たちがいる。また、価値観が多様になり一人の人間ではまったく理解できないようになっている。ここで自分はあるシナリオを妄想した。今後価値観を同じくした人が集団で限界集落に移住し、そこ独自のコミュニティを形成する。するとそこで新たな文化が生まれてくるのではないだろうか?
現代はグローバル化が進み、多くの国の文化が均質化されつつある。皆が同じ文化を持つことで、その土地独自の文化が失われつつある。そういう「美しい文化」が失われていくのは止められないかもしれないが、限界集落に移住した人たちによって、これから「美しくなるだろう文化」が作り上げられて行くのではないだろうか?
限界集落に移り住み意見の同じ人が集まると、多少変なことをしても批判されることはない。すると集団のなかにある習慣が何者にも邪魔されることなくすくすくと育ち、磨かれ、研ぎ澄まされて文化になって行く。現代の伝統はそういうところから生まれるのではないだろうか。
たとえば大麻を吸うことを悪だと思っていない人が集まれば「ゆるやかな大麻コミュニティ」が生まれる。あれももっと発展したら大麻を使った新しい「郷土料理」が生まれていたかもしれない。
また、不倫は文化だという人が集まれば不倫が文化になるんだろう。そこでは不倫されても怒ることはないし、不倫された人が不倫することもあるだろう。新しい家族の形ができるかもしれない。
パリピが集まれば奇祭ができるのではないか?
殺人を悪いこととしない人が集まれば、生にとらわれていてはできなかった斬新なスポーツができるかもしれないし、優勝商品をいかした郷土料理ができるかもしれない。
法律に違反することになるだろうというのはまた別の話だ。今現在の法律ではこれらの文化は存在しえないし、存在するなら見つけ出して適切な処分が必要だろう。しかし、価値観が今よりさらに多様になり、維持すべき「あるべき姿」を決めることができなくなってしまったら、法律で特定の価値観だけを優遇するようなまねは馬鹿らしくなってくるかもしれない。
人々の考えが細切れのバラバラになったら、文明が衰退し人類は滅んでしまうだろうか?そんなことはないと思う。広い土地でバラバラになって、それぞれまったく違う独自の文化を作って、ひとつひとつは小さなコミュニティだが全体としては人間が増え、繁栄している……というのは土地が十分広ければ可能だと思う。
極端な話をすると人類がこれから火星や、とてつもなく広い太陽系外のもっと想像もしないようなところで暮らしていくには、全部の星で同じ価値観を共有するというのは非効率的だし不可能だ。環境に合わせて価値観も適応させていくことが必要なのだ。
それに、全く違う方向で思考を発展させてきた人が話し合うことでもっと面白いことが起きるかもしれない。
そういうわけで、人口が都市に集中したことによって「美しい文化」が失われたかわりにできた限界集落と言う名のフロンティアで「美しくなるだろう文化」が生まれることを想像した。考えるだけなら面白い。