「我思う、故に我あり」という言葉があるが厳密にはあれは間違いで、正しくは「我思う、また記憶す、故に我あり」である。 生物は記憶することによってまとまりのある自我を保つことができる。 記憶がなければ我々の意識は時間方向に無限に分割され、バラバラになってしまう。 そんなような書き出しの本を読んでいた。
ところで自分はなぜ病院の売店でコーヒーを飲んでいるのだろう。 最近ボーっとすることが多くて困る。 家に帰ろう。
この間も自分のこのボーっとしやすい性質で大変な目にあった。 明日までに出さなければならない書類をポストに投函しようと外に出て、そのまま普通に1日中散歩して帰ってきてしまったのだ。 なんとかしなければと思うのだが、こういうものはどうやって直せばいいのだろうか。
図書館についた。 先ほどの本を返却し、面白い本がないか探し回る。 そういえば書評を見て面白いと思った本があったんだ、確か記憶についての本だった気がする。 分類からそれらしい本棚を探してみたが、見つからない。 検索システムでは貸し出し可能となっているので、まさかと思って返却棚を見たら置いてあった。 古い本なのに、自分と同時期に借りるような人がいたのか。 その人も書評を読んだのかもしれない。 本を手に取り、司書の人に渡すと怪訝な顔をされた。
「あの……もう一度読み直すんですか?」
まさか、この本はまだ一度も読んだことがないはずだ。 自分の物忘れはそんな病的な段階までひどくなるものだったのか? 怖くなったので借りるのはやめた。 走って家に帰り、誰か相談できる人がいないか考える。
真っ先に彼女のことを思い出した。 かれこれ3年の付き合いで、なんでも話せる。 また、ボーっとしがちな自分をよく助けてくれた。 財布も携帯も忘れて飲食店で食事をしてしまった時も、自分の居場所を推測してやってきてくれた。 あれはもう超能力の域に達していると思う。 携帯を手に取る。 彼女の番号を探すときは電話帳から探すより通話履歴を見た方が早い。 いくつか履歴の中に知らない名前があった。 頻繁に電話するような人のことを忘れてしまっているということだろうか。 冷や汗が出てきた。
電話はすぐにかかった。 「今どこにいる!?」 こちらが話すよりも前にスピーカーから声が聞こえてきた。 「家にいるよ、ちょっと自分やばいかもしれない、助けて欲しい」 それを遮ってさらにまくし立てられる。 「やばいのはわかってる、この会話4度目」 ええ……と声が出た。 言われたことの意味を理解するのに少しかかった。 「今からそっちに行く。そこで会って考えよう」 そう言って電話を切り、家を飛び出す。 まだ何か言うことがあるようだったが、そんな事を気にしている余裕はなかった。
携帯電話を机に置き、呼吸を整える。 彼女の家はここから歩いて10分ほどだ。 走っていけばその間記憶がおかしくなることもないだろう。 そう考えて家を飛び出してハッと気づいた。 彼女の家は隣町にあり、歩いていこうとおもったら1時間はかかる。 自分はこんな状態でそこまで歩いていこうとしていたのか。 自分の考えなしに嫌気がさしながら、歩いて5分ほどの駅に向かう。
どうしてこんなことになってしまったんだろうか? 電車に乗り、今日1日の間に何か変わったことがなかったか思い出す。 朝起きて、散歩に行き、カフェで同じ商品のレシートが大量に出てきたことで異常に気づき、急いで病院に向かっている……全く思い当たることがない。
とりあえず誰かに連絡をとろうと思い立った。 しかし連絡先を知っているのはあの子しかいない。 昨年交換留学生としてやってきた子だ。 あの子とだけは自由に話し合うことができて唯一の友人になった。 国に帰ってしまった今でも頻繁に連絡をとっている。 彼女に話してもどうにもならないし向こうも困るだろうが、自分の置かれている状況を知っている人が誰もいないよりはいい。
ポケットに手を伸ばすが携帯電話がない。 どこかで落としたのだろうかとここまでの道のりを思い出しているうちに、自分が少し変わったところにいることがわかった。 自分は今列車の中にいるのだろうが、まず内装が奇妙だ。 それにみんな靴を履いている。 そう思って足元を確認すると自分も靴を履いていたので慌てて脱いだら周囲の人間が不審がっているようだったので履いていることにした。 とりあえず列車を降りると明らかに様子がおかしい。 こんな速い列車は見たことがないし、周りの建物も首が痛くなるほど高い。 まさかと思って新聞を探すと4桁の英数字の後に年とある。 おそらく西洋の暦だろう。 しかしそうだとしてもこんな数字にはならないはずである。 未だに信じられないが、どうやら自分は未来に来てしまったらしい。
駅名を確認する。 幸運なことに自分の知っている地名だった。 完全に街が作り直されていない限り、駅前の大通りをまっすぐ行けば自分の屋敷に着くはずである。 自分の子孫なら事情をわかってくれるかもしれない。 しかし心配なのは妻のことである。 病気が悪くなったということで慌てて療養地に向かっているところだったのだが、もしかすると今後一生会えないかもしれない…… そんな事を考えて途方にくれたところで目が覚めた。 最近立っていても夢を見るほど眠り込んでしまう。 寝不足なんだろうか?
しかし面白い夢を見た。 あまりに自分と設定がかけ離れている。 性同一性障害の気があるのかもしれない。 それにしても遅い。 待ち合わせの時間を過ぎて、さらにちょっと寝て、それでもこないというのはさすがにおかしい。 連絡をとろうとバッグの中の携帯電話を取り出そうとしたが、バッグがない。 ひょっとして寝ている間に盗まれてしまったのかな? 他にも何か盗まれていないか全身を確認するとどうもおかしい。 こんな服を着てきた覚えはない。 それになんだか自分の体も少し大きい気がする。 ひょっとしてまだ夢の中にいるのかな?と思って頬をつねってみても何も起きない。 わけがわからず座り込んでため息をつく。 ポケットを漁ると免許証があった。 明らかに自分の顔ではないし年齢も性別も違うが、とにかく頼れるものはこれしかない。 とりあえず書かれている住所に行ってみることにした。
住所の場所にはちゃんと家があり、表札にも免許証と同じ名字が書かれていた。 なんだか自分を忘れてしまいそうだったので、改めて「元」自分について思い出してみた。 自分の家はここから10分ほどのところにある。 先にそっちに行くべきだったかもしれない。 「自分」の家と「元自分」の家の位置関係を思い出すとそこから連鎖的に色々思い出して来た。 自分はこの免許証の人を知っている。 というかそのカノジョだったはずだ。 それでたまにこの家にお邪魔していた。 そう、今家の玄関の前でオロオロしている女の人みたいな感じで…… という「夢」をみていたころ、ようやく深い死の眠りから復活することができた。
「夢」である程度世界の様子を知っていたため、慌てることはなかった。 具体的にどれほどの時が流れたかはわからないが、今は人間が世界で最も大きな勢力になっていて、魔王など存在すら忘れ去られているような状態だ。 魔王の側近である自分自身の力も非常に弱くなっているようで、まるでかつて人間に乗り移った時のように魔力を感じない。 実際人間のような腕をしている。 目の前の人間が怯えないのを見ると、自分は見た目としては完全に人間となっているようだ。 どうして人間の形になっているかはわからないが、ここまで力がないと人間にさえ殺されてしまいそうだ。 とにかくまた死んで復活まで退屈な時を過ごすのは嫌だ。 今は人間として振舞っている方がいいだろう。 そこにいる人間に話しかける。
「すみません、この辺にコーバンというのはありませんか?」
自分は以前あまり人間と交流がなかったのもあって、あまり人間の表情を読み取るのが得意ではない。 しかし目の前の人間がしている表情が、人間が普段の生活の中でするそれではないことはわかった。 なぜそんな奇妙な顔をするのか? まさか自分が魔王であることがバレたのか? 人間はすぐに「ケータイ」を取り出す。 確かこれで別の場所の人間と話ができるもののはずだ。 どこかと話し始めたが何を言っているのかさっぱりわからない。 どうやら先ほどは言葉が通じていなかったらしい。 しかし困った、思念話すらできないほど魔力がないとは。 これでは人間の群れに溶け込むことも難しくなってしまった。 しかし今の力で行ける範囲内はすべて人間のテリトリーだろう。 食べ物にすら困ってしまう。 とりあえず歩きながら考えようとその場を離れようとしたところ先ほどの人間が服を掴んできた。 いくら振り払おうとしてもくっついてくるので最後には突き飛ばして走って逃げてきた。 死ぬ前の強かった頃の自分を思い出してため息をつく。 あの頃の力があれば……まてよ、何かがおかしいぞ?
自分は別に長い時を経てついに復活した魔王でもなんでもなかったはずだ。 なんでこんなことを考えている? 記憶が書き換わっているか、世界が書き換わっている可能性がある! まずいぞ、自分についての記憶が全くない。 通信機などの道具一式もない。 とりあえず自分の記憶が書き換わっているとして、機密保持の為にも組織に見つけてもらわなくては。 ポケットにうまい棒が入っていないか探す。 確か緊急時のビーコンとして強力な電磁波が発生するうまい棒の配置というのを教えられていたはずだ。 しかしスニッカーズは入っていなかった。 なんとなく知っている場所の気がするので、近所にコンビニがなかったか思い出すが、ちょっとなさそうである。 とりあえずどこかでホームランバーを入手できないか探しに行こうと思ったが、どうも移動ができない。
どうやら歩き方を忘れたらしい。 これは非常にまずい。
非陳述記憶まで消えるとなると本当に何もできなくなってしまう。 そもそもわりばしなら遠くまで買いに行かなくてもゴミとして捨ててあるかもしれないということに気づいた。 そっちをあたろうとゴミ捨て場の場所を思い出し、足を動かしてぎこちなく進もうとすると急に体が重くなってきた。 完全に動けなくなってうつ伏せに倒れ込んだところ、自分の心臓が動いていないことに気がついた。
心臓の動かし方まで忘れてしまったらしい。
この感覚は前にも経験したかもしれない。 そうだ思い出した、体調の悪い時に血液検査を受けた時と似ている。 何もできなくなって、すぐ側の人にすら話しかける気力がなくなる。 目の前が暗くなってくる。 顔から血の気が引いて行くのがわかる。 しかし心臓の動かし方を忘れても死の恐怖は覚えてるとは残酷なものだ。
思い出すのは愛犬のことだ。 人間の友達が1人もできなかった自分の話し相手になってくれた。
走馬灯のようにさまざまな思い出が蘇る。